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湯倉神社 稲荷神社

 500余年前の享徳二年(1453)頃、一人のきこりが家に帰る途中に小高い丘(現在の湯倉神社のあたり)で一休みをしていたところ、沼沢地で湯気が立っているのを発見し、近づいて手を入れてみたところ湧き湯があり、その後きこりが病気になり腕の関節の痛みがひどくなったとき、湧き湯のことを思い出し、湯治をしたところ、程なくして病気が治った。そこで、きこりはそのお礼にと薬師如来を刻み、小さな祠を建てて安置したのが、湯倉神社の起源だ。
 そして、湯倉神社内では社殿の向かって右に稲荷神社がまつられている。ここで祀られているのは倉稲魂命の神であり、いわゆるお稲荷さんで明治43年7月31日に合祀され、<五穀豊穣や商売繁盛のご神徳を授かることができる。代表的な食物の神であり、その名の通り、特に稲の神霊である。いわゆる稲荷神として、民間で最も広く親しまれている神であり、その御利益は本来の稲の霊から大きく拡大して、商売繁盛を始めほとんどあらゆることに効験があるとされる。稲荷神社は全国に3万を超え、名もない祠のようなものまで含めれば、その数は計り知れない。しかし、その神話における働きはなく、名のみが見えるだけである。 稲荷神として親しまれているとしたが、厳密に言えば倉稲魂命と稲荷神は別の存在であった。稲荷神に対する信仰が始まったのは奈良時代である。稲荷信仰の総本社である伏見稲荷大社の社伝によれば、和銅四年(711年)に稲荷三山三ヶ峰に稲荷神が鎮座したことから始まるという。この稲荷神は代表的な渡来氏族である秦氏が守護神として祀った。また松尾大社も秦氏の創建である。本来の稲荷は字の通り(稲成り)稲の神霊であるが、秦氏の発展と共に、殖産興業などの性格も加わり、大きな勢力を持つに至った。なお、全国の稲荷神社が飛躍的に増えたのは、商業が発達した江戸期のことである。 稲荷といえば狐と連想するが、何故に狐なのか、またいつ頃結びついたのかはよく分からない。少なくとも中世には稲荷の神使は狐ということが定着したが、さらに荼枳尼天(だきにてん)と同一視されるに至った。というのも荼枳尼天は狐に乗った姿で表されるからだ。本来は山の神獣であった狐だが、荼枳尼天信仰と結びつくことによって、妖しいイメージが付いた。荼枳尼天は非常に現世利益の傾向の強い神で、人の心臓を喰らう恐ろしい神である。その御利益を望む者は死後に自らの心臓を荼枳尼天に奉げることを契約するという。こうしたことから、稲荷信仰にも、御利益はあるが疎かにすると祟りがあるという、恐ろしい性質が加わることになったのだろう。

2011年427()1110
湯倉神社内の稲荷神社前

御手水舎

 これは湯倉神社にある「御手水舎」です。この場所は鳥居を通り15メートル程進めば右側に見えてきます。御手水舎は三拝者が身を清めるために手水を使う施設のことであり水盤舎とも呼ばれる御手水舎は、通常神社・寺院の参道脇または社殿脇に置かれ、参詣者が手や口を漱ぎ、清める。多くの手水舎は、四方転びの柱が用いられ、四方吹き放しとなっており、その中に水盤が据え付けられている。水盤は通常、石材のものが多いが、鉄や木などの材料を用いたものも存在していて湯倉神社の水盤は石材である。「御手水舎」には柄杓が置かれてありそれを使用する。柄杓にすくった一杯分の手水を少量ずつ使い、一連の所作を行う。
 右手で柄杓を取り、手水を掬う。まずは左手を清め、柄杓を左手に持ち替えて右手を清め、もう一度右手にその柄杓を持ち替え、左の手のひらに少量の水を溜め、その水を口に含み、音を立てずにすすいだ後、左手で口元を隠してそっと吐き出す。決して柄杓に直接口をつけてはならないのである。そして、柄杓を両手で持ち、やや立てるように傾け、残った水が柄の部分を流れるようにする。柄杓を元の位置に静かに戻す。以上が一般的な使用方法になっている。手水の起源は神道に由来し、かつては聖域を訪れる際に周辺に流れる河川の水や湧き水で身を清めていたことにはじまるのである。
湯倉神社

狛犬

 この写真は湯倉神社の「狛犬」です。狛犬とは、獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされ、像として神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多く、またその際には無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる。
 飛鳥時代に日本に伝わった当初は左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」と称すが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化したのである。
 狛犬の起源は古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。また、古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流である。日本に伝来したのは、中国の唐の時代の獅子が、仏教とともに朝鮮半島を経て伝わったものと思われ、「こまいぬ」の語義も「高麗(朝鮮)の犬」であるというが、魔除けに用いたところから「拒魔犬」と呼ばれるようになったとする説などもある。奈良県法隆寺の五重塔初重の壁面塑造に彫られている像のように、はじめは仏や仏塔入口の両脇に置かれ、獅子または大型の犬のような左右共通の姿であった。
湯倉神社

絵馬掛

 この写真は湯倉神社にある「絵馬掛」です。絵馬は神社や寺院に祈願するとき、および祈願した願いが叶ってその謝礼をするときに寺社に奉納する、絵が描かれた木の板である。
 個人で奉納する絵馬として、小型で馬などの絵が描かれて、余白や裏面に祈願の内容や氏名などを書くものが、寺社で販売されている。大人数で奉納する絵馬は、大型で、画家に描かせるなどして奉納者が用意することもある。
 小型の物については五角形(家型)の物が多いが、これはかつて、板の上に屋根をつけていた名残である。絵馬の歴史は奈良時代の『続日本紀』には、神の乗り物としての馬、神馬(しんめ、じんめ)を奉納していたことが記されている。しかし、馬は高価でなかなか献納できず、また、献納された寺社の側でも馬の世話をするのが大変である。そのため、馬を奉納できない者は次第に木や紙、土で作った馬の像で代用するようになり、平安時代から板に描いた馬の絵で代えられるようになった。
 明治時代以降、多人数で奉納する大型の絵馬について、「伊勢神宮参拝記念」「戦勝祈念」(明治時代~敗戦まで)「厄除け祈願」「子供(特に男子)の誕生を記念して」「干支」などの様々なバリエーションが生まれた。昭和時代からは、学問の神様である天神として菅原道真を祀った天満宮(福岡県太宰府市など)に受験生が合格祈願の絵馬を奉納することが盛んになった。
 白蛇などの縁起物の動物や、祭りの風景など馬とは関係ない絵馬も多く作られ、神社、寺院毎の縁起物として珍重され、これは神社、寺院巡りをした際のお守りとしても持て囃されている。
 2006年頃から、プライバシー保護の観点から、絵馬に書かれた願い事や住所・氏名の部分にステッカーが貼れる絵馬もある。
湯倉神社

湯倉神社の拝殿

 湯倉神社の拝殿。
 写真を撮りに来た時には人がいる様子は無かった。
 松前神楽は、約350年の歴史を持つ北海道道南地方で行われている神楽である。本来、神職のみに継承されてきている神楽で、城内神事として松前藩の主要儀式で、その作法は厳格であるという。
 奴行列とは、参勤交代の際の大名行列での所作を再現するもの。道南には松前氏の影響で各地に奴行列が伝統芸能として残っている。
湯倉神社